学習塾ミチビキ

【スタッフのつぶやきvol.30】「自分の言葉」を持つこと【後編】


(この記事は、前編と後編の2本でお届けします。)

 

前回の記事では、「言葉の獲得」が人の成長とどう関わるかということを中心に考えてきました。 

後編の記事では、「自分の言葉が育つ」環境や関わりや学習について、より具体的に考えていきます。「言葉の獲得」には、

知っている言葉の量

言葉を使った「考え方(言葉の使い方)」を知っていること

表現の仕方のお手本があること

安心して表現できる環境

自分が表現し伝えたことが、容れられていると感じられた体験の積み重ね

など、思いつくだけでも、必要な条件(材料)が意外とたくさんあります。

 

では、そうした「条件(材料)」が、お子さんの中で蓄えられていくために、必要なことはなんでしょうか?

 

子どもの「一人になる権利」

先日、とあるオープンスクールに参加した際、直接「言葉の獲得」の話題ではないものの、その土台にもなるのではないかと感じた、デンマークコペンハーゲンの幼稚園のとあるエピソードがありました。以下にその全文を引用します。

 

「制作」から「見守る」へ──民藝から「庭」を考える|鞍田崇 | 遅いインターネット

より。

「『森のようちえん』はデンマーク発祥と言われる幼児向けの情操教育で、既存の園舎や遊具で遊ぶのではなく、街の近隣にある森へ出かけ、子どもたちが自然の中で発見し、遊びを創造してもらうという取り組みです。僕の友人がワーキングホリデーでコペンハーゲンに滞在していた際にこの取り組みに関わっており、帰国後、写真を見せてもらいながら、彼女からお話しを聞く機会がありました。写真を見るだけでも、笑い声が聞こえてきそうなぐらい子どもたちの生き生きとした姿が伝わってくるのですが、そんな中に一枚だけ、トーンの違う写真がありました。すごく静まり返ったような感じで、巨木が林立し鬱蒼とした森の中に、ぽつんと一人だけ小さな子どもが立っている写真です。この『森のようちえん』に参加している最年少の女の子が、一人だけ仲間たちからはぐれて、森の奥深くにてけてけと歩いて行ってしまった際に写したものだといいます。

(鞍田さんの)友人は『迷子になったら危ない』と思って、駆け寄って連れ返そうとしたそうなのですが、そのときにガシっと肩をつかまれたとのこと。振り向くと、引率に来ていた別の先生が彼女の肩をつかんで、『行っちゃダメ』と。『彼女はいまあの木と対話しているから、邪魔しちゃダメ。ここから見守ってればいい』と言われたらしいのです。

最初にこのエピソードを聞いたときには、『デンマーク人って、なんておしゃれな返し方をするのだろう』ぐらいにしか思っていなかったのですが、後々になって考えると、子どもの心に寄り添うように考えての発言だったのだと気づきました。その子にとっては、『庭の話』で言うところの『事物とのコミュニケーション』の真っ最中であり、大人の判断で『危ない』や『怪我したらいけない』と言うのではなく、その時間を大事にしてあげなければならないのだと」(鞍田さん)

 

何気ないエピソードですが、子どもにも「一人になる権利」があるから、それを邪魔してはいけないーそのことについて「子ども観」や「人間観」、良いとされる関わり方の日本と北欧での違いついて考えさせられ、思いを巡らせ、とても興味深く感じました。

 

北欧では、「子ども」を基本的に一人の人間としてみなし、その人の意見やスペースや権利について軽んじることなく尊重するそうです。

その子が一人で何かと向き合うことで広がる「その子だけの世界」は、大人が「踏み込まない」ことによっても守られる。

そしてその子にはその権利がある...ということに、「なるほど」と感じたのです。

 

それは「その子自身が」物事に直面し、考え、自分の力で向き合っていく権利とも言えます。

「自分自身として」世界と出会い、何かを感じる経験は、私たちが経験する最初の孤独かもしれません。

 

お子さんのそうした場面に居合わせる時、もしかすると、大人には忍耐が必要かもしれません。お子さんを「放っておく」ということが、案外難しいと感じたことはないでしょうか。

 

その子自身が自分で動きだす「余白」や「余地」を残しておく、「大人側の持っている難しさ」が案外あるのではないかと感じることがあります。

 

子どもには子ども自身の力があるのにもかかわらず、その子が、何かするのを「見守り」「待つ」ことよりも、大人が何かを「してあげる」ことの方が意味があると、いつの間にか思ってしまうのです。

特に、私は前職時代(児童福祉関連の施設職員でした。)「仕事」としてそこにいる自分は、子どもを急かしたり何か提案したり介入したりと、子どもに対して「何か働きかけなければいけない」というようなプレッシャーを、職場の環境や同僚の雰囲気から感じてしまうこともありました。(実際、見守るばかりでは立ち行かないことがあるのも事実です。)

 

しかも、大人はそうした環境下で、その子のしたことを、良いのか、悪いのかと無意識的に「評価」してしまいがちです。

迅速にできているので「良い」、言われた通りにできているので「良い」...

「子どもの歩み」のスピードや、その道のりに寄り添えない自分に気がつき、ふとした時に、「早くできる」「正しいことができる」ことを求めるのは、その子と対峙する大人にとっての「(進捗や状況の)管理のしやすさ」や「わかりやすさ」を優先してしまう、実は大人側の勝手な欲望なのかもしれない...と、感じたりもしました。

 

しかし、大人が求める姿や期待の外で伸びていく、その子の力も実はあったりするのです。

 

お子さんの「自分の言葉」や、それによって築いていく「自分自身の世界」も、大人が踏み込みすぎずに、お子さん自身の「心の余白」が守られることによっても、生じてくるものかもしれません。

 

その子の内側で世界が育って行くのを、大人が立ち止まって待つということも、案外大切なことだったりするのかもしれません。

 

体験を通して言葉を「知る」こと

一つ前に述べたことは、お子さん自身の一人の人としての力を認め、「待つ」ということでした。

お子さんと実際に関わってきた経験からも、それもとても必要なことだと感じます。

しかし、待ってばかりいるのでは、「放置」のようなことにもなってしまいかねませんね。

 

それでは、お子さんと関わる大人にできることは何でしょうか。

 

その一つについて、それは「言葉」を知識として教えるだけではなく、それが「体験」として刻まれていく、その「過程」をサポートすることや、言葉が生身のものであると感じられる環境作りなのではないかと考えています。

私が指導や関わりの中で実際に行ってきた具体的なアイディアがいくつかあります。

 

 

  1. (最初は)価値判断を決してしないこと
     一つは、あるいはその子の心の中に、その子の感情を安全に置いておける場所をつくることです。

大人の意図や、感情によって、その子が発する感情や考えなどの表現を価値判断(ジャッジ)をしないことを大切にしていました。

「褒める」ということも無闇やたらにはしないよう、気をつけていました。

 

なぜかというと、その子自身が、自分自身の内にあるものを受け止める前に、誰かのリアクションや承認が軸になっていくことで、その子自身が感じ、考えるというスペースを狭くしてしまわないためです。

「いいね」「すごいね」「それはどうなの?」「それはダメだ」などと、肯定的/否定的なリアクションをする前に、その子自身のそのままの表現を反復(オウム返しに)し、その子自身が、自分自身を受け止められる状況を作ります。

自分自身と向き合うことを、何事においても第一段階のプロセスとして考えました。

その子が、「その子自身で」考え、言葉を紡ぐ部屋のようなもの、評価に晒されず、左右されず、それができるスペースや余地を作ってあげることです。

そうすることで、大人がフィードバックしなくても、自分で「これはどうだったかな」、「次はどうしようかな」と、お子さんの中で自ずと振り返る余地も生まれやすくなるのではないでしょうか。

 

  1. 考えていることを実況する(「考える」ことのモデルを見せる)こと

     自分(私自身)の思考のプロセスを実況したり、子どもに思考の言語化を促すということも意識して行っていました。

    また、子どもが何かに圧倒されている時に、

「『びっくりした』かな、それとも『こうなると思わなかった』?それか、『どうしよう?』という感じ?」

などと、自分の心で起こっていることとつながる、輪郭になるような言葉を一緒に探す、といった小さなことの積み重ねも丁寧に行っていました。

 

これは、「正解」や「答え」をすぐに出さないといけないというプレッシャーを軽減することにも繋がります。

大人が当たり前にしている選択や判断のその「過程」は子どもにとっては意外と見えない物です。

そこにある迷いや矛盾も、「見えない」子にとっては、まるであってはいけないものに感じられてしまうかもしれません。

 

だからこそ、どのように考え、物事を判断していったら良いのか、「過程」を知る経験が少ない子ほど、暗中模索の不安な中で、即座に答えを出せることを求められているように感じてしまい、プレッシャーに圧倒されてしまうこともあります。

 

現代ではIT環境が普及し、検索によって思考も答えも、何かと「結果」は手に入りやすくなりました。

しかし、そのことによって、よりその「過程」はより見えづらいものとなりました。

思考や想像を働かせる機会が減り、子供達は「文脈」が切り取られたものに触れることが多くなったと言えます。

知人の教職員から、「最近の子は、出来事や言葉を切り取って文脈のないものとして感じとったり、受け取ったりしているように感じる場面も増えた」とも耳にしました。

 

誰しもが悩んだり考えたりする過程を持っていて、その先に出てくるこたえや結果があるということ自体を、お子さんはもしかすると知らないかもしれません。

「過程」や、勉強でいうのであれば「途中式」があって、それが悪いものではないということ、むしろその考える過程が大切なのであって、その先でオリジナルの答えを出して良いということを知り、安心して様々な可能性や考えの余地をお子さんが持てるということは、その子の心の余裕にも繋がっていくと感じます。

 

私の前職は、心理・情緒面の課題があるとされるお子さんとの関わりを多くさせていただくような現場でした。

そうした現場では、この「思考の過程」を見せる、お子さん自身の過程に寄り添う、心の余地を作るという工夫が、いつも何かに圧倒されて、焦っていたり苛立ったりしていた子たちの、目に見える変化に繋がったように感じました。

どう考えたら良いかわからないのに、良い答えや正解のようなものを求められることは、お子さんたちにとって、見えない重荷が心に積もっていくようなことにもなりかねません。

 

  1. 良いことでも悪いことでも、「自分」の言葉や行為の結果を認め、引き受けていくこと

さらに、これも意外と難しい事なのですが、良いことでも悪いことでも、お子さん自身が、「自分」が選んだことの結果を、「自分で引き受けていく体験」を先回りして取ってしまわないことも、大人にできる、その子に対しての誠実な関わり方だと考えています。

 

これが、「良い結果」「望ましい結果」であれば、比較的容易いかもしれません。

お子さんが取り組んだ過程を言葉にし、そのことを承認し、行為と、その主体性に基づいた自己肯定感の基盤が固まっていくようにサポートします。

しかし、それが、思っていたような結果とは違った時、あるいは間違えてしまった、失敗してしまったと思えるような瞬間こそ、それをどう捉え対処していくかということが、とても大切です。

 

もし、お子さんが自分の言葉で「こうする」と決めたこと(=考え、選択)に対して、大人が「良かれと思い」先回りし、失敗しないようにしてあげてしまったり、悪い結果が出た時にそれをなかったことにするように綺麗に片付けてしまったりしては、その子が自分の言葉で考え選んだことの結果は、その子にとって、空白になってしまいます。

 

そうすると、お子さんが「自分で考える」ことにも、それを表現するために必要な「自分の言葉」を探し見つけ、選んでいく「動機」そのものも失われていきます。何を言ったってやったって、自分とは関係がないような感じがしてくるからです。

 

「責任を取らせる」というような印象で、厳しさと感じられる方もいらっしゃるかもしれません。けれどこれは、責めたり、罰したりするためではありません。

 

例えば、「叱る」という行為自体も、お子さんを裁いたり罰したりするためではなく、「行為の結果を引き受ける」というプロセスの現実的な体験なのではないでしょうか。

 

自分の行為の実感が薄れていき、自分の力を確かめるために大人を試し、「叱られ待ち」のようなことを繰り返すお子さんとも出会ったことがあります。そうして、その子なりに学ぼうとしていたのです。

 

言葉にしなくても、考えなくても、選ばなくても伝えなくても、いつの間にか「なんとかなっている」そういった体験は、見えないところでお子さん自身の持つ力を否定していってしまいます。

 

お子さんが自分で行ったことが悪い結果であったとしても、「自分の選択の力」ではなく、「結局は、大人の意向」で物事が動いていくと感じる体験が積み重なると、それは無力感と諦めの学習へとつながっていきます。

 

お子さんが自分の判断で選んだ結果が「うまくいかない」ものであっても、それを、お子さん自身が自分自身の「体験」として味わうことを奪ってしまわない忍耐も、大人側に必要ではないでしょうか。

 

そして、うまくいかなかった時は、決してお子さんを責めないでください。

その状況でこそ、支えになる大人の出番です。

その子自身に全てを背負わせるのではありません。否定的な結果に直面した時こそ、お子さんが落ち着いて受け止められるよう、心の中での対処の仕方を一緒に考え、支えることができるチャンスだと思います。

 

自分の言葉や考えたことが、現実の世界や関係性に働きかけ、何かの「結果」が生じていくこと、その過程や、反省ごとをそのまま体験していくこと。

その積み重ねこそが、「自分の言葉」の意味や、それを使うことの具体的な体験になっていきます。

 

「言葉」や「論理」、「思考」というものは、実は生身の生きた体験を身体で味わい、受け止めていくことで、培われていくものではないでしょうか?

ソーシャルメディアが普及した昨今では、体験なしに、「言葉」にも、「知識」にも「情報」にも、出会うことが容易になりました。

実際には知らないことを「知ったような」気持ちになれるコンテンツも多くあります。

行動範囲やできることにも限りがあるお子さんにとって、それらは必ずしも悪い作用を及ぼすものばかりではないでしょう。

私自身もデジタルネイティブの世代ですから、それらを活用して、様々な音楽や本や映画に触れた幼少期の体験の全てを否定的なものだとは考えていません。

 

しかし、お子さんが「自分自身が生身で」、触れて関わり、自分自身で動き、その結果を受け取っていくという実際の体験の中でしか育まれないものは、確かにあるだろうと感じます。

 

言葉もまさしくその一つです。

自分の放った言葉を受け取った他者を目の当たりにしなければ、その言葉の持つ意味や社会の中での作用を知ることはないでしょう。

ネット上での「言葉の暴力」や誹謗中傷が社会問題になってもう久しいですが、「人と人」や「社会」を媒介していく言葉というものは、匿名下で人や社会の顔が見えづらくなると、その「言葉自身の持つ姿」も、わからなくなっていくものなのではないでしょうか。

 

お子さんたちが、あるいは私自身も、「実際」の「自分自身の体験」の感触や味わいと、ある種の擬似的な体験とを区別することができているだろうか?ということにも目を向けていきたいと思います。

 

これらのことは、言葉の育つ土壌を耕すようなことかもしれません。

言葉のほとんどは、文法や用法を除けば、大人が「与える」ものでも「教える」ものでもないのではないかと思います。

 

先に述べた、言葉が育まれていくのに、私が必要だと考え、現場でも実際に工夫して実践している事柄を要約すると以下のようなことです。

 

・お子さん自身が安心して、自分の偽りない言葉を持てる環境があること

・言葉を使い、思考する過程の方法のお手があること

・それらを使った自分の働きかけに対する応答を、「意味」として受け止めていく生身の体験を重ね、言葉の手触りを知っていくこと

それらのことを通して、自分が表現し伝えることで、生まれる可能性、動きや変化を予期できるようになること

 

こうした、言葉の育つ土壌のような条件があるのならば、自分の放ったものを受け止めてもらえること・相互のやりとりができることを期待し、自分をより表現し伝えることができる言葉を求め、草花が自ずと成長するように、お子さんの言葉の力ももしかすると伸びていくのかもしれません。

 

語彙力や読解力も、「その子自身が伝えたいこと」「知りたいこと」などの、必要に迫られた時に、最も身についていくものではないでしょうか。

 

これまで、こうした工夫をしながら関わったお子さんたちが、いつの間にか辞書や本を読むことを好んで行うようになっていく姿を見てきました。

それまで、自分の考えを話すということのなかった子が、自分の意見とその理由まで活き活きと話す姿に驚かされることもありました。

あるいは、それまで何をするにも「大丈夫かな」「上手にできないと思う」と自信のない様子だったのが、工作やダンスや音楽など、言葉だけではない自分なりの表現を笑顔で「見て!」「一緒にやろうよ」と誘ってくれるようになっていったお子さんもいました。

言葉は、言葉を超えた表現や、心の自由を開いていく可能性の鍵にもなっていきます。

 

言葉を覚え自分のものにし、それが誰かに伝わることには「意味」があり、心が動いていくことなのだと知る体験の積み重ねが、その子自身の「言葉」と「その世界」、そしてその先にある様々な可能性を育んでいくのではないでしょうか。

机の上の正解・不正解だけではない、人と人との生きた関わりの中で育まれる土台があってこそ、学習を含むその子の様々な力は育まれていくはずです。

そうした価値観と眼差しこそ、当塾が大切なこととして据える関わりの土台でもあります。


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