学習塾ミチビキ

【スタッフのつぶやき vol.34】「相手の意図」や「他者の視点がわかる」ようになること【後編】

 

(この記事は、前編・中編・後編の3本でお届けします。)

 

こんにちは!Michibikiゼミの渡辺です。この記事は▶︎

michibiki.hatenablog.jp

の続きの内容です。


前回の中編では、「『心の理論』がわかっているか」を調べる一般的な方法について紹介しました。

しかしそうした実験で、「相手の意図や視点の理解」についての力が、「あるかないか」をはかりきれる訳でもなさそうです。

 

その人が「心の理論」がわかっているかどうか、私たちは本当に「わかる」のか

前回の記事で紹介したような「誤信念課題」と呼ばれるものは、子どもが「誤った信念」でこたえるかどうかだけを調べるために、非常に限定的に切り抜かれた状況が設定されています。

例えば、「サリーとアンの課題」の一連の場面を見せた後で、「サリーはどちらにビー玉があると思うか」という質問を、別の形式にします。

 

「ビー玉の場所を間違えてしまいそうな人(場所がわからなくて困る人)に教えてあげて」と子どもに伝えると、この課題をクリアできると言われる4歳より前の子でも、ビー玉の場所を知らないサリーに、ビー玉がアンの箱にあることを教えてあげることができるそうです。 

この実験は「助っ人課題」と言われ、切り抜かれた状況の場面だけでは一見「サリーはビー玉が移動される場面を見ていないので、ビー玉の正しい場所を知らない」ということを理解できないように見えた子でも、それが、「他者の視点を理解する力がない」ことを示しているとは限らない、ということがわかります(マツイら, 2007)。

ある方法では抽象的で想像することができなかったとしても、「困っているから助けてあげる」という、「社会的な関係」、かつ「具体的な目的」がある立場に立つと、「自分とは異なる視点の人」から見えているものが理解できているということを、周囲の人にも示せるのです。

最初のサリーとアンの実験でわかるのはあくまでも、その子が「実験者の期待する回答ができるかできないか」だとも言えるのです。

 

つまりは、課題に応じて実験者(大人)が、「求める(想定する)こたえ」やその課題設定と、子どもにとっての理解や反応との間にズレがあったということです。 

それを大人が測定できるかどうかで「能力の有無」や発達時期として見なすことも便宜上(理論上)確かにできますし、自閉症の方では、こうした課題がクリアできないことが特徴であると言われています。

しかし、条件さえ整えば、自閉症の方にも定型発達者のような心の働きを見ることができるそうです。

では、他者の心の動きの理解について、定型発達と非定型発達とで何が違うのか。

それを、「自発的に(自動的に)行うか」ということに「違い」があると言えそうです(「子どもの社会的な心の発達」 林創著, 金子書房,  2016年出版)

 

なので、大人が想定し期待する範囲でクリアできないからといって、すなわち「その子に『その力がない』と、断定できないのではないか」ということも、こうした実験の反証から考えることができます。

 

これらのことは、発達や勉強のあり方がそれぞれ違うお子さんたちを見ている中でも、納得できて、かつ興味深い内容に思えます。 

 

「やり方」や「環境」など、様々な条件次第でお子さんの「できる」「できない」は、案外変わっていきます。 

 

冒頭で問いかけたような、「何だか意図がうまく伝わらない」あるいは、「想像力が足りない気がする」、「返ってくる反応が的外れだと感じる」ような時、大人は戸惑いますし、「なんだか思ったようにコミュニケーションが取れない」と感じるかもしれません。 

私自身も、正直そうした経験がたくさんあります。

「こんなふうにこたえて欲しいな/こたえるだろうな」と期待して、思ってもみなかったこたえ、時に奇想天外なこたえが返ってきたりする(それはそれで楽しかったりします)。

 

でも、それは、その子が「わかっていない」のでしょうか。「わかる力がない」のでしょうか。

もしかすると、お子さんの中にはお子さんなりの「心の理論」があるかもしれません。

 

学習を進める中でも、その子にとっての「わかる」が見えてくるまで、様々に角度を変えながら一緒に考えます

そうしているうちに「そういうことか」としっくりきて納得できるまでの道のりの中で、私の方が、「その子の心の中で起こっていることが、よくわかっていなかったのかもしれない」と思わされることもあります。

 

大人が期待するこたえと、その子に「見えている世界」

ここまで、「相手の意図」や「他者の視点がわかる」ということについて、心理発達の研究の世界から少しずつ考えてきました。

 

そこから、大人が期待するように「こたえられない」ということが、つまりその子が「わかっていない」「わかる力がない」ということだとは、限らないのではないか...ということも見えてこないでしょうか。

 

例に挙げたような実験は、心理学や発達支援の世界では比較的著名な実験です。

しかし、この実験で観測されることはもしかすると「正しく答えられるかどうかを知りたがっている大人の意図」が、わかるかどうかということかもしれません。

 

公的な学校教育のなかでも、そうした「できる/できない」という一元的な評価が大きな軸になっていると言えます。

 

今は期末考査も終わった時期でしょうか。学校のテストも、実はそれで「学力」の全貌を測定できているかというと、切り抜かれた抽象的な力を切り取って調べているに過ぎないのかもしれません。

 

そこでは与えられた情報から、何を求められるかを汲み取り解決していく力を要します。その総合的な対応力が「学力」という抽象的な「能力」として評価されます。

 

しかし、それを「こなしていける」と言うことが、その子の力や可能性を知る上での、全てでは決してないと、これまでの指導の経験からも思うのです。

まさに、一人の子をみる時にも、異なったものが見えてくる別の視点があるということですね。

その子だから見える世界や、その子だけの世界、課題との関わり方のユニークさは、大人が設定する望ましさが「できていない」というレッテルを貼ってしまうことさえなければ、大人が思うよりももっと、様々な可能性を持っているのかもしれません。

 

その子に「こう見えていてほしい」という大人の教育的な意図や期待とは別に、その子が「実際に体験している世界」から見えるものの視点に大人が気がつくことでも、新たな発見や道が隠れているかもしれません。

 

とはいえ認識や理解の仕方にそれぞれ個性があり、場面に応じて適切に対応していくことを求められることが、時に困難や壁となることがあるのも事実です。 

そのことについてはまた別の記事で、「心の理論」を元にした行動やこたえを、どうしたらお子さんが導き出し実際に実行(アウトプット)していけるのかについても考えていきたいと思います。

 

実はこの記事で挙げたような、「理解する力がある」ことと、「正しくこたえることができる」と言うことが異なるという点が鍵になります。

 

それでは、ここまで読んでいただいてありがとうございました。

外は本当に冷える季節になりました。みなさまどうぞ、暖かくしてお過ごしください。


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